たかぎのカギ~20代の最後に思うこと~

プロのサラリーマンを目指すアラサーのブログ。


本気で自分の人生を振り返ります。はじめての転職活動。

 

これまでの自分の人生を本気で振り返りました 

転職活動でも自己分析は欠かせません。

 

面接では過去の意志決定における、判断基準、判断内容を聞かれます。

 

はじめての転職活動、本気で自分の人生振り返るチャンスだと思い、過去の人生における意志決定とその後の人生に与えたことをまとめました。

 

転職活動中の方はもちろん、就職活動中の方の参考になれば幸いです。 

 

生後~幼稚園のとき

生まれも育ちも長野です。

3人兄姉の末っ子として生まれました。

 

生まれてからすぐに風邪をひいて死にかけていたらしく、幼い頃は結構風ひいてたし、比較的体は強くなかったことを思い出しました。

小学校のとき

アトピーと喘息に悩まされました。今でも薬は飲んでいます。


アトピーはひどいときは友達との遊びにも集中できないほどかゆかったし、喘息は運動誘発性で、発作が怖くて走れないときもありました。

 

アトピーで紫外線を浴びられないので、友達と同じ遊びができないときは屋内で本を読んだり、プラモデルを作ったりしていました。両親とも学校の先生で家は本だらけでした。

 

アトピーと喘息の症状がおさまり、外で遊べるまで良くなってきたら治療も兼ねて小4の時に同級生のお父さんがコーチをしていた地域のクラブでサッカーを始めました。

 

これで一気に友達増えました。始めて間もなく喘息が悪化し、走ることがままならなくなりGKに転向。

 

誰でも入れたし、大会に出ていなかったチームだけどコーチの意向で6年生のとき出場、練習も楽しくなり、地区大会で2位になる。活躍して努力賞を受賞した。

 

その他に、

・月に1回演劇を見るクラブに入っていた。サバイバル生活形式の県内の小学生の交流会にも参加していた。様々な年代の人との触れ合い。

・通学時と体育の時間は数少ない外に出れる時間だったので、川に入ったり寄り道して家に帰っていた。

・母親の学級通信「みんな違ってみんないい」に影響を受ける。

・学校の行事はかなり頑張る

・転校していく仲間経験。

・夏休みの宿題は、はじめ頑張って、残りは直前でやる派。自由研究頑張っていた。

 

中学のとき

・持病
持病は食事と薬の投与でアトピーと喘息両方とも改善。

部活ができるようにまでなっていきました。

 

 ・サッカー部
入学と同時に県の選抜コーチが顧問になる。

これがきっかけで、入学当時は同じ地区に県大会常連校がいて地域で勝ち抜くことも諦めていたけど、県大会出場を目指す部活になり2年の夏から他薦で部長になった。

最後は個人として試合に出られず、チームとしては6年ぶりにひとつ上の大会に行けたが県大会出場は叶わなかった。

 

県大会常連校にロスタイムでの同点弾と勝ち越しを経験。

 

同じグループの県大会出場チームと得失点差まで肉薄した。ベンチで泣いた。

 

目標を持って頑張ることの大切さ、コーチの大切さ、最後まで諦めないことは中学で学んだ。

 

部長になったときに猛反対にあいながらも部員に校庭の草取りをさせ集中力を高めて、新人戦優勝をした。副部長兼キャプテンが部員との間に入り説得してくれた。

 

・勉強

勉強は学年150人中20位くらい。県内の進学校はどこでも受かるくらいだった。

 

・その他のイベントなど

・母親のクラスの子が隣のクラスに転校してきた

・部活を辞めさせた部員と大学で邂逅。

・勉強は学校の宿題で学年順位キープ。中学時代が一番勉強したと思う。

 

高校のとき

・持病

病気はほぼ克服。強豪校のトレーニングにも耐えられるようになっていた。

 

・学校の選択

学校の選択基準は文武両道。勉強も部活も頑張りたかった。なので、

①公立校

②偏差値

③サッカー部の強さ

で選んで公立校の中から「全国出場経験がある県ベスト8常連校で、1番偏差値が高い学校」を選択。部活の顧問が国民体育大会の監督だったのが決め手だった。

 

県大会にも出場したことのない無名の中学から強豪校への進学だったが、試合出られなかった悔しさと部長だったプライドもあり挑戦。

 

・サッカー部

同期は約30人くらい。半数が前年度の県大会出場チーム出身と、県大会優勝校出身で構成されていた。ゴールキーパーも国体の選手。

 

通用しない環境で揉まれながら、練習についていってなんとかBチームで出場機会を得てアピールしていくという日々が続いた。試合に出れなくても、自分の成長がモチベーション。Aチームの試合に出られなくてもサッカーがあって仲間といる生活が楽しかった。

 

2年生から次第にAチームのベンチに呼ばれるようになって練習試合に出られるようになった。通用する手応えを感じ、そこで初めて試合に出れると思えてそれからは具体的に試合に出ているイメージ湧けて2年生の冬からレギュラーになった。しかし、その後ミスが度重なり最後の大会はベンチで終える。

 

原因は慢心。後輩に県優勝したゴールキーパーがきて、追い上げに負けた。追われる側に回ってプレーが硬くなった。

 

入学当初は考えもしなかったAチームでの試合出場、目標を抱いたからこそ辛かった。またベンチで泣いた。

 

追うものは追われるものよりも強い、ことが学びになった。

 

自分が追いかけているときは伸び伸びとプレーできて、レギュラーも経験できた。いざ追いかけられる側になって、あっさりと抜かれたことによるもの。

 

・勉強

どうしたら高校3年の秋までサッカーを続けても国立大学に行けるか考え実行した。

具体的な取り組みは、こちらの新卒就活の時の自己PRを読んでもらえると早い。

 

自己PR(400)

私には「自分理解を元に目標達成の戦略を立て完遂する力」がある。高校時代に所属した全国大会出場を目指すサッカー部では身長が大きくないゴールキーパーとして活躍方法を考え、長所を伸ばすオリジナル練習法を実行し、県リーグ優勝メンバーとして公式リーグ戦10試合中7試合に出場を果たした。大学受験では暗記力が平均の自分が志望校に合格するため顧問の助言を元に、授業と通学時間の「体育会的活用」と本試験に向けた暗記科目の「高コスパな勉強法」に取り組んだ。具体的には、授業中は解答に繋がる出題者の意図の理解に集中し、通学時間に公式と単語を覚え、直前の追い込みで点数を上げやすい暗記科目は試験直前2か月に集中する受験戦略をとった。その結果3年生の10月までサッカーを続けたが約3か月で5教科7科目の合計点を150点上げ、現役で志望校に合格することができた。自分の弱みも戦略を立てるための気づきに変え成果に結びつけることができる。 

 

コツコツ最低限のことは取り組みつつ、本番直前で追い込んで合格したって感じですね。

 

大学のとき

・学校の選択
受験する学校と学部の選択基準は

①国立

②偏差値

③二次試験での得意科目の配点が高いか
で選んだ。

 

引退後に受験勉強開始したときに国立の大学の中で、歴代のサッカー部の先輩が引退後に必死で勉強して現役で合格できた大学を基準に目標設定。

 

卒業した母校は自分の学力としても、やっと手が届く目標だった。浪人前提に受験する学校を選ぶことはしなかった。偏差値で並んだら、全体の配点において二次試験での得意科目(英語)の配点が高いかに注目して合格の可能性を上げることを考えて受験校と学部を選んだ。

 

選手権まで残って現役ではこのくらい、浪人したらこのくらい、という基準が歴代部内でできていた。

 

E判定からのスタートだったが猛勉強してセンター直前の模試ではC判定までいった。合格後、浪人するかほんの少し考えた。明確に行きたい学校と学部が無かったし将来弁護士、医者になりたいなら違ったかもしれないが、歴代のサッカー部の先輩たちと並んで、文武両道の高校生活やり切った、殻を破った自分がいると感じ、入学。

創作ダンス部入部

この創作ダンス部への入部がその後の人生を大きく変える。

 

体を使って全国レベルの目標を立てている部活を探した。

何かの全国レベルを体感したかった。これは今でも理由がわからない部分、オリンピックでいうと「国籍と種目変えてでもオリンピックに出たい」選手の気持ちと似ていると思う。

 

すると、ラクロス部と創作ダンス部を見つけた。ラクロス部も魅力的だったがダンス部の魅力が勝った。

 

創作ダンス部の魅力は、

①ダンスが持つ多様性

②カッコいい先輩がいた

だった。 

①は、ダンスをしている人達の間にはお互いないもの持ってるよねという前提があってそれに惹かれた。踊るうえで、どんな個性も磨けば武器になる。部活の運営としても良い意見は年次と所属期間関係なく通った。

 

②は、4年生にカッコいい先輩がいて、卒業までにこの人と踊るためには今始める必要があった。タイミングが決め手になった。

 

ちなみにサッカーを続けなった理由は以下のとおり。
①やりきったという気持ち
②補う型の努力に疲れていた

①は、サッカーに対して完全燃焼していた。理由はない。
②は、続けるならゴールキーパーだったが、高校時代は身長が大きくないゴールキーパーとして弱みを補いながらプレーしていたが、これに疲れていた。(1VS1と至近距離からのシュートストップを鍛える、クロス上げさせないなど)

 

ダンスでの経験は以下を見てもらえると早いです。よくある学チカになります。

■学生時代頑張ったこと(400字)

【ダンス経験0から全国大会発表作品でキーマンになること】

全国大会常連の体育会系創作ダンス部で「全国大会でキーマンになる」という目標を定め達成した。ダンス経験0から日本一を目指す創作ダンス部に入部したとき、スキップすらできずプライドが砕け散り、経験者の練習メニューで絶望したが、負けず嫌いの心に火が付いた。高校時代までのスポーツをする体から、ダンスで表現する体へ生まれ変わるために週40時間の練習に加え、毎日15分以上の柔軟を継続し、授業の合間には先輩と苦手克服の自主練をこなした。その結果2年生の全国大会では「作品の世界観の理解」を理由にセンターで演技する機会を与えられ、部としても40校中1位相当の賞を受賞した。さらに3年生の単独公演では「自分で創作した作品を発表すること」も実現できた。他者のために自分を成長させたいと思う気持ちを原動力に努力と継続を積み重ね目標を達成できた経験を貴社でも活かしたい。

 

部活:勉強だったら9:1で部活に偏る生活をしていました。

 

休学

4年生の後期から2年間休学しておりました。(2014/10~2016/9)

 

・休学した理由
①プロフェッショナルダンスカンパニーの研修生になるため
既卒での就活を避けるため

 

①は、プロになるために環境を変える必要があったからでした。
プロを目指した理由は、ダンスが楽しくて毎日ダンスをして生きていきたいと思ったからで、環境を変える必要があったのは、環境を変えて成長スピードを上げないとプロにはなれなかったからでした。働きながらでもダンスはできましたが、若いうちに集中した方がなれる可能性は上がります。今しかないと思いました。

その後は、オーディション準備のため部活を辞めて3年の秋から冬のオーディションの準備を始めました。オーディション合格してからは翌年4年の10月の入団まで、ダンスの練習をしつつ卒業に必要な単位を取っていくという生活をしていました。

この時は震災が起きた年に入学しその影響か「いつ死ぬかわからないから今しかできないことをしよう」という気持ちが強かったです。これまでのサッカーの経験から環境と指導者が大切だということはわかっていたのでプロになるための環境と指導者を探しました。

 

所属するカンパニーは憧れていた先輩が先に研修生をしていたからと、毎日踊る環境が整っていて、海外帰りのカリスマ演出家が主催する、自他共に認める日本トップレベルの集団だったからです。研修生ながら写真家の篠山紀信イッセイミヤケらと協業しました。

 

周りが就活している中、黙々とレッスンを受けてオーディション対策をする日々でした。拠点が新潟にあったので引っ越しをするためのお金と生活費の貯金も進めました。研修生の間は無給なので貯金切り崩したりアルバイトしながら生活していました。

 

「プロになって毎日踊る生活をしたい」という気持ちを原動力に、1日10時間、週6日のリハーサルをこなしてプロと国内6か所で30以上の公演をしました。

 

②は、大学を卒業してから就活すると既卒就活で不利になると考えたからです。研修生の契約期間と同じ2年間という期限を設けて、この期間でトップに昇格できなかったら就活しようと思っていました。

 

・ダンスカンパニーを辞めた理由
2年間の研修期間を経てトップに昇格できなかったらです。

 

昇格できなかった理由は、自分でなければならない理由を作れなかったからだったと思っています。ボスからも「お前はダンスじゃない、と言われました。」

 

毎日要求に応えることに精一杯で、自分らしさをつけ足す余裕なんてなかった。
でも本当は要求は7割達成で良くて、ボスも考えない他の何かで貢献して欲しかったのかもしれない。

 

他の人は、なにかでボスに常に演出着想の元となる刺激を与え続けていました。
なければいけない理由を作り続けていたんです。自分はそこまで辿り着けていなかった。

 

この学びは、その後の仕事やプライベートにおいても自分である理由を作ることに活かせています。現職の営業で言うと、会う度に成長している、新しい情報を持ってくる、対応で後手に回らない、などです。

 

自分でなければならない理由を作ることは、人生かけて実践していきたいですし、貴重な20代前半費やして学んだ学びです。

 

・その後プロを目指さなかった理由
初めから2年間の間で昇格できなかったら就職しようと思っていました。

 

それでも、働きながらプロを目指していないのには理由があります。
自分が本当にしたかったことが、やりたいことをしたかったのではなく、働くことから逃げることだとわかったから、です。就活を始めている同級生を見て、働くことが怖くて、社会に出ることが怖くて、目の前の楽しいことに逃げていたんです。

 

こんな気持ちでは続けても、プロにはなれないと思いました。

 

わかったのは研修生として1年が経った頃のことでした。
ボスとの面談が行われ、契約を切られる先輩、更新するか悩む先輩の話を聞き、プロダンサーたちも悩みがあると知ったことがきっかけでした。

 

この瞬間何かが自分の中で崩れ去ったのがわかりました。

ダンサーもサラリーマンなんだとわかった瞬間でした。

毎日踊れる生活が手に入ったら、その状態が幸せだと思い込んでいたんですね。

 

この日から徐々に「ダンスは趣味で良い」と思い始めました。
ずっと踊り続ける毎日が欲しかったのは、自分が現実逃避をしたかったのだと自覚し始めたのです。 

 

徐々に気持ちの競りが着き、10月に復学後、就活に切り替えることができました。
実際にはここまで整理できていませんでしたが、働くということと向き合おう、社会に出ることと向き合おうと思いました。ここまでやり切らなかったらきっと1社目の仕事には没頭できなかったと思います。

 

復学後、納得する就活をするため当初の予定通り、1年の留年をすることにしました。

 

就活

・1社目を選んだ理由

自分の就活の軸は、
①イベントを作る仕事の営業職
②多様性のある社会を支える仕事
③人と社風
でした。

 

①は、ダンサーになったあと演出家になりたいと思っていて演出家がイベント業界の営業職が近しい仕事だったからでした。イベント業界の営業職に加えてクライアントにイベントを駆使したクリエイティブを納品していた広告とPR業界も受けました。ダンスで培った強みが活きるライブのイベントを作る仕事に携わって成功体験を積み、働くことにポジティブになりたかったです。

 

(自分の強みは”切り替えの早さ”で、これまでダンスで振り付け変わったりカウントが変わってもすぐ対応してきたことが活かせると思いました。公演前日に怪我して検査麻酔で片目が見えなくてもすぐに切り替えて踊り切ったこともありました。)

 

職種について、営業職は自分の言葉とか行動で対価を得るので、パフォーマーだな、ダンサーみたいだなと思って志望していました。

 

②は、現職がオークションハウスを運営する仕事なのですが、芸術という国や自治体も社会全体の多様性を作っていると認めている領域で、美術館のように観るだけではなくて、安心して気軽に売り買いできる場所を作ることで他の楽しみ方も提供して「多様性のある社会を作ること」に貢献していると思っています。

 

母の学級通信「みんな違ってみんないい」に影響を受けて育ち、人や社会の多様性について幼少期から教えこまれていました。実際ダンスでは多様性に支えられていましたし仕事選びにおいても自然と人とか社会における多様性が入ってきた。さらに父が中学の美術科教師をしていたこともあって美術に関心がありました。

 

自分は自分の理解者に支えられてきた。サッカーでもダンスでも、自分のことを理解してくれる人がいたららやってこれた。多様性のある社会を作ることで、固有の価値観が守られ、理解者同士の出会いが生まれると信じています。

 

 (イベント自体が多様性のある社会を作ることに関係していると考えていて、その会場に行くという行為自体が価値観の表明であり、会場にいけば同じ思いの人に出会え、それが自分の気持ちに対して肯定的になるきっかけとなり、それぞれの気持ちの肯定が多様性のある社会を作ることになると考えるからです。コロナでイベントが無くなるとこういう機能が失われるのでどうなるのかなと不安です。)

 

③は、判断したかったが企業インターン経験もわずか、OB訪問でも判断基準を持ち得るまでには至らなかった。結局、直感で選びました。

 

①と②を満たす企業から内定もらった後は、
①業務内容の確実性
②営業職としての可能性を広げること
の2点で1社に絞りました。

①は、業界の中でも規模が大きな会社から内定をいただいたのですが、お客さんと直接やりとりするまで下積みで5年はかかると言われていたので辞退しました。

 

②は、現職が顧客の種類(個人と法人)と売り物(無形と有形)が網羅されていたので、営業職として将来の可能性を広げられると思いました。中途半端と思われるかもしれませんが可能性を広げると捉えました。

 

総じて、この選択は良かったと思っています。
成果がでて働くことにポジティブになれたからです。過去の学びも活きました。

 

転職活動

・転職理由
①経営における人の課題を解決する営業になりたいから
②若いうちからグレードを上げるチャンスを得たいから

①について、現職でギャラリーや百貨店へ資金作りと仕入れに携わる中で、扱う人の差で経営資源が最適化されずにロスになる事例を見て、経営における人の課題に関心を持つようになりました。

 

そうした中、社内で希望する部署に配属されずに2年連続で同じ部署から離職する後輩を間近で見るうちに、世の中には他にもミスマッチによる離職が起きているなら一人の人間として自分が解決したいと思うようになりました。

 

ビジネスマンとしては経営の課題解決という社会にも働く人にも与える影響が大きい仕事ができるようになりたいですし、人の能力発揮機会を生むことで、企業の経営課題を解決していきたいです。

 

現職では、人の課題解決はできず、人事になったとしても自社の課題にしか関われません。環境を変える必要があると思い転職活動を始めました。

 

②について、自分の成長を成長によって得られる仕事・職位・待遇で実感したいという思いがあります。30代でマネジメント経験を積んで社内で働く人に対してもその人の可能性を引き出したいですし、ライブプランの選択肢を広げる給与水準を得たい。現職では、次の職位までに5年ほど時間がかかる。どんなに成果を出した先輩でも年次が理由でできていない。会社の成長も鈍化していてポストができないことも大きい。

 

現職で満たせないことがあるので環境を変える必要があるという現状があり、もっと根底には幸福度を上げたいという思いがあります。新卒のときと比べて、働くことにポジティブになり自己実現の手段として仕事選びができるようになりました。

 

・人材業界志望理由
①経営における人の課題を解決する営業になりたいから
②多様な生き方を支える仕事がしたい
③これまでの業務経験が活かせると思うから

 

①については、転職理由と同じです。

求職者と企業が互いに求め合うマッチングを生んで、経営における人の課題を解決し、経営資源のロスを無くすと同時に、人の能力発揮の機会を創出したいです。

 

②について、新卒のときの軸と関わってくるのですが、
仕事という人生の時間の大部分を過ごす時間、1人が生き生きと働ければそれだけ1つの価値観が守られたともいえます。「みんな違ってみんないい」、多様な生き方を支えたいです。

 

③について、これまで個人と法人のお客様を自社のオークションでマッチングさせてきた経験が人材業界でも活かせる部分があるのではないかと思っています。例えばマッチングビジネスにおける交渉と調整には似た部分があると思っています。

 

例えば売り手と買い手双方の間に入り、お互いの要望を擦り合わせていくという行為は繋がるものがあると思います。売り手と買い手の間に入って、売り手のニーズを買い手側の事情から調整して現実的な金額を伝えたり、逆に買い手のニーズを売り手側の事情から調整し金額を擦り合わせてマッチングさせてきました。

 

また、人の気持ちを扱う以上、取引決定になるまで対応を考え、即座に対応できるようにしておくことも鍛えられました。

これらだけでも、片方の要望のみを大きくしたマッチングは難しく、内定受諾まで状況が変わる可能性のある人材業界で活かせる部分があると思っています。

 

・なぜCA(キャリアアドバイザー)なのか

CAとして、求職者側から求職者と企業のお互いが求め合うマッチングを生んで、働く人の人生を豊かにしたいです。

経営における人の課題の解決はRA(リクルーティングアドバイザー)の方ができるんじゃないの??と思わる方もいると思います。人材業界志望する原体験が企業側と求職者側両方あり、正直に言うと将来機会があればRAも経験したいです。

 経営における人の課題にはCAでの関わり方とRAでの関わり方両方があると思っています。

 

そのうえでCAは、
①求職者と企業のマッチングの最初に携われること
②企業の魅力を直接求職者に伝えられる
がRAよりも魅力です。

 

働く企業先でどう活躍できるかまで考えて提案をしていくことが、求職者にとってもメリットがあると考えていて、求職者に寄り添い過ぎると決められずに行くところが無くなるという事態に陥る可能性もあります。

 

共感力が強いのであえて、採用側の視点を意識して持ち合わせてバランスとりながら提案していきたいです。求職者の経験がどこで求められそうかポテンシャル含めて加味して提案していきたいです。

 

働くことにネガティブだった自分も仕事で成功体験を得ることでポジティブになり、今では自己実現の手段として自分の仕事を選ぶ余裕まで持てるようにまでなりました。

 

この体験を元に様々な理由で今は働くことにポジティブではなくなっている方に寄り添っていきたいです。

 

最後に

働き始めてからもことあるごとに自己分析は続けていました。
これからも続けていきたいですし、人材業界への転職成功させたいです!

 

壮大な物語になりましたね!

最後まで読んでくれてありがとうございました!

 

良かったらコメントもらえると嬉しいです!

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